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東京地方裁判所 昭和62年(特わ)1211号 判決 1987年11月25日

主文

被告人を懲役一年に処する。

未決勾留日数中一八〇日を右刑に算入する。

本件公訴事実中覚せい剤取締法違反の点につき被告人は無罪。

理由

(罪となるべき事実)

被告人は、昭和六二年四月九日午後一時ころ、東京都江東区南砂○丁目○番○○号先××駐車場において、A所有の普通乗用自動車一台(時価一五万円相当)を窃取したものである。

(証拠の標目)

一  被告人の当公判廷における供述

一  被告人の司法警察員(昭和六二年四月一九日付、同月二二日付)及び検察官(同月二〇日付、同月二四日付)に対する各供述調書

一  Aの司法警察員に対する供述調書二通

一  G作成の被害届

(法令の適用)

被告人の判示所為は刑法二三五条に該当するので、その所定刑期の範囲内で被告人を懲役一年に処し、同法二一条を適用して未決勾留日数中一八〇日を右刑に算入し、判示有罪部分に関する訴訟費用は刑事訴訟法一八一条一項但書を適用して被告人に負担させないこととする。

(一部無罪の理由)

一本件覚せい剤取締法違反事件の公訴事実は、「被告人は、法定の除外事由がないのに、昭和六二年四月一五日ころ、東京都豊島区池袋四丁目四一六番地先首都高速道路北池袋出口手前待避所に駐車中の普通乗用自動車内において、覚せい剤であるフェニルメチルアミノプロパン約0.1グラムを含有する水溶液約0.25立方センチメートルを自己の右腕に注射し、もつて、覚せい剤を使用した」というものである。

弁護人は、被告人が違法な逮捕手続による不当な身柄拘束下の状態で、黙秘権の告知も受けることなく、捜査担当警察官から被告人の住居を捜索場所とする捜索差押許可状を、被告人の尿を差押目的物とする捜索差押許可状と偽られ、その旨誤信して止むなく採尿に応じさせられたもので、尿の採取手続に重大な違法があるから、右公訴事実に関する検察官請求証拠のうち尿の鑑定嘱託書、鑑定書及び任意提出書は、右公訴事実の証拠とすることが許されず、被告人につき右公訴事実の証明がないことに帰し、被告人は無罪であると主張する。

二そこで、被告人が右公訴事実により起訴されるまでの経緯を検討する。

被告人、証人B(第一、第二回)、同C(第一、第二回)、同D及び同Eの当公判廷における各供述、窃盗被疑事件捜査報告書(撤回部分を除く)、電話聴取票二通の写し並びに捜索差押許可状によると

(一)  警視庁葛西警察署防犯課保安係勤務のC巡査部長は、本件に先立つ昭和六一年九月ころ、被告人を被疑者とする別件覚せい剤取締法違反事件につき、当時の被告人宅を捜索場所とする捜索差押許可状の発付を受けた上、同月一八日午前八時ころ、右被告人宅で右令状を執行したが、目的物の発見に至らず、その後被告人を同行して葛西警察署に赴き、被告人に対しその尿の任意提出を求めるため五時間程説得したが、被告人は尿が出ないとしてこれに応じなかつたこと

(二)  葛西警察署刑事課勤務のB警部は、翌六二年四月判示窃盗事件を認知し、同月一五日被告人を被疑者とする通常逮捕状の発付を受け、被告人を逮捕するため、その立ち回り先の張り込み捜査をしていたところ、同月一八日午後八時過ぎころ、東京都江東区木場二丁目付近の道路交差点において、タクシーを呼び止めようとする被告人を発見したが、当日同所で張り込みをしていたのはB警部一人であり、一人による逮捕行為は避けるよう指導されていて、逮捕状も所持していなかつたことから、被告人に対し、「葛西署のBだが、甲野太郎だな。警察にいつてもらう。自動車の件だ」などと声を掛けながらその腕をつかんだ上、「もし逃走しようとしたときは逮捕する」と警告し、葛西警察署までの同行を求めたところ、被告人が素直に応じ、タクシーを利用して東京都江戸川区東葛西六丁目三九番一号の葛西警察署まで向かつたこと

(三)  B警部は、被告人を同行して葛西警察署に到着した同日午後八時二〇分ころ、被告人から小便をしたいとの申し出を受けたが、小便をすることを待つように申し向け、前記C巡査部長に対し被告人に尿意のあることを連絡する一方、被告人に対し右窃盗の事実を確認した上、同日午後八時四〇分被告人を通常逮捕したこと

(四)  C巡査部長は、同月一四日被告人に対する別件覚せい剤取締法違反事件につき被告人の肩書住居を捜索場所とする捜索差押許可状の発付を受け、捜索実施の機会を窺つていたところ、同月一八日被告人がB警部と共に来署したことを知り、さらに、B警部からの連絡で被告人に尿意のあることを聞き及び、被告人から尿の提出を受けるため、右捜索差押許可状をロッカーから取り出して折りたたみ、これを上着の内ポケットに入れ、採尿容器及び手続書類などを携え、同日午後八時四〇分過ぎころ、同署二階刑事課取調室に赴き、B警部の面前で、被告人に対し、「覚せい剤で捜査している。腕を見せてくれ。注射痕があるではないか。まだやつているんだな。採尿するから小便を出せ」などと採尿に応じるように申し向けたところ、被告人は間もなくこれに応じ、さらに、尿の任意提出書及び所有権放棄書に署名してこれらを作成したこと

(五)  被告人は、同月二八日本件覚せい剤取締法違反事件について逮捕されたが、右逮捕後間もなく、同房者の弁護人をしていた小山香弁護士(被告人の本件弁護人)に対し、「採尿のための令状が出されていたか調べて欲しい」旨依頼し、同弁護士から「採尿令状に関する話し合いは葛西警察署内では好ましくない。拘置所へ移監された後にしよう」などと申し向けられたものの、その後の取り調べに対しては覚せい剤の自己使用について素直に供述し、同年五月九日右事件について公訴を提起されたこと

(六)  右(四)の捜索差押許可状は結局執行されることなく、その有効期間を経過したこと

の各事実が認められる。

被告人は、右に認定した経緯について

(一)  木場二丁目付近の交差点において、痛いとまで感じる程ではないが、強く腕をつかまれ、やむなくタクシーに乗つた

(二)  刑事課取調室で、令状らしき書類を取り出し、その日付欄を指差すC巡査部長から、「今日はおまえこれが出ているんだから。日にちも五月十何日になつているだろう。今回はこれがあるから出さなければならない」などと申し向けられ、強制採尿のための令状が発付されている旨欺罔され、誤信して本件採尿に応じた

(三)  尿の任意提出書に署名する際、「何で任意なんだ」と質問したところ、C巡査部長から「強制でも任意ということで書くんだ」などと言われた

(四)  腕の注射痕を検分されたのは尿の提出後であつた

(五)  覚せい剤取締法違反事件により再逮捕された後、C巡査部長に対し、強制採尿のための令状が発付された理由を質問したが、曖昧な返事しかしてもらえなかつた

などと当公判廷において供述している。

そこで、被告人の右供述の信用性をみると、その公判供述中に、被告人が警察官に対してした捜査協力の内容及び捜査協力をする理由、あるいは、判示窃盗事件に関連して自動車窃盗の動機などを述べた部分があるところ、これらの供述部分は、B警部の供述と食い違つている上、同警部は被告人のした捜査協力の事実などについて、あえて虚偽の供述をする必要性がなく、その供述内容も具体的詳細であつて、その信用性が高いこと、被告人は、かつて、世田谷警察署の取調官から強制採尿のための令状は覚せい剤の所持とか注射器の所持とかいう覚せい剤に関連する明白な証拠がないと発付されない旨を聞いたことがあり、本件採尿に応じた後にこれを思い出したなどと供述するが、取調官が、被告人に対し右のような事柄の話をすることが疑問であるばかりか、その内容が専門的であるにもかかわらず、記憶が詳細過ぎると考えられ、一方、被告人が右供述をする前の公判期日において、C巡査部長が尿を差押目的物とする捜索差押許可状の発付について同様の趣旨の証言をしていたこと、被告人は、C巡査部長の説得に対し短時間で尿の採取に応じ、尿の任意提出書及び所有権放棄書に署名していること、被告人は、小山弁護士との接見後の取調べに対しても素直に事実関係を供述していること、C巡査部長は、被告人が採尿を拒否する様子をみせたことがなく、素直に採尿に応じたと供述し、さらに、C巡査部長と被告人とのやり取りのあつた葛西警察署二階取調室が、三畳程の小部屋で、両名の話を間近で聞いていたB警部が、C巡査部長と同様の趣旨の供述をしていることなどを併せ考えると、強制採尿のための令状が発付されていると欺罔されたなどという被告人の前記一連の供述の信用性には疑問の余地がある。

しかしながら

(一)  被告人が任意提出書などを作成していることと、強制採尿のための令状が発付されている旨欺罔されたと主張することが、矛盾しているとまではいえないこと

(二)  被告人が小山弁護士との接見後も、素直に事実関係を供述したのは、本件において、尿を差押目的物とする捜索差押許可状の発付の有無により、証拠が排除される可能性のあることを知らなかつたと理解できること

(三)  B警部は被告人とC巡査部長とのやり取りを一部始終見聞きしていた訳ではないと供述していること

(四)  被告人が捜索差押許可状を示されて強制採尿のための令状と誤信させられたとする供述は、具体的詳細であつて、これがまつたくの虚偽の供述であり、信用できないとして排斥することには、いささかのためらいを覚えること

(五)  被告人が本件覚せい剤取締法違反事件で逮捕された後、被告人の弁護人である小山弁護士に対し強制採尿のための令状について相談したという事実は、強制採尿のための令状が発付されている旨欺罔されたとする被告人の前記供述の信用性を高めること

(六)  被告人は、今回と同様に被告人宅の捜索差押許可状が発付されていた別件覚せい剤取締法違反事件に関連して、C巡査部長から五時間程にもわたつて説得されながら、尿の任意提出に応じなかつた経緯があるにもかかわらず、今回尿の提出に短時間で応じたこと

(七)  C巡査部長は、背広の内ポケットに捜索差押許可状を入れて被告人のいる取調室へ赴いた理由として、尿を任意提出するよう説得するための手段として、被告人に覚せい剤取締法違反の嫌疑が及んでいて、現に家宅捜索令状まで発付されていることを証明するためだつたと述べているが、この種の令状を、しかもC巡査部長の言によると後に執行することもありうるものを、当該被疑者に確認させることを考えたということが理解しにくいこと

(八)  C巡査部長は、被告人が本件窃盗事件で逮捕された際、覚せい剤常習者に特有とされる態度とか、様相を示しておらず、当時把握していた証拠のみでは、被告人を被疑者としその尿を差押目的物とする捜索差押許可状が発付される可能性に乏しいと認識していた旨供述していること

(九)  C巡査部長は、昭和六一年九月被告人を葛西警察署に同行し、尿の任意提出を求め続けた時間について、実際は五時間程であつたのに一時間程であり、無理な捜査活動をいささかもしていないと強調しているが、保護観察所の記録によると、C巡査部長の供述する内容が誤りであることが明らかなこと

などを併せ考えると、被告人の供述がそのまま信用できるとはいえないとしても、C巡査部長が、被告人宅の捜索差押許可状が発付されていることを利用し、尿を差押目的物とする捜索差押許可状が存在するかのように被告人を誤信させる発言をして被告人を欺罔し、その結果、被告人が強制採尿のための令状が発付されていると誤信し、止むなく尿の任意提出に応じた旨の事実を推認せざるをえない。

なお、弁護人は、B警部による葛西警察署への同行は、その実質が逮捕手続であり、通常逮捕状の緊急執行の要件を満たさない違法なものであること、採尿を求めるに当たつて黙秘権を告知しなかつたことは違法であることを主張するが、弁護人の主張にそう被告人の供述が真実であるとしても、右同行が違法な逮捕であると評価することはできず、また、採尿手続は供述証拠を得る手続ではないから、黙秘権の告知が必要とは解されず、弁護人の右主張は理由がない。

三ところで、採尿手続に、憲法三五条及びこれを受けた刑事訴訟法二一八条一項等の所期する令状主義の精神を没却するような重大な違法があり、採取された尿の鑑定書を証拠として許容することが、将来における違法な捜査の抑制の見地からして相当でないと認められる場合においては、右鑑定書は証拠として許容されないと解すべきであるところ、本件のように、捜査官が、被告人宅の捜索差押許可状が発付されていることを利用し、尿を差押目的物とする捜索差押許可状が存在するかのような発言をして被告人を欺罔し、その旨誤信した被告人から尿の提出を受けた事案においては、右尿の鑑定書は証拠として許容されないというべきである。

四本件覚せい剤取締法違反事件において、尿の鑑定書を証拠とすることが許されないとすると、被告人が使用したとされる注射液中に覚せい剤が含有していたことを証明するに足りる証拠がないから、その余の点について判断するまでもなく、右公訴事実についてはその証明がなく、刑事訴訟法三三六条により、被告人に対し無罪の言渡しをする。

よつて、主文のとおり判決する。

(裁判官髙梨雅夫)

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